「私の履歴書」を通じて知った釜本さんのサッカー人生
元サッカー日本代表で伝説的なストライカーだった釜本邦茂さんが先月8月10日に肺炎のためなくなった。81歳だった。
世代が離れているので、私がサッカーを始めたときに釜本さんはすでに現役を引退していた。だから、プレーを詳しく見たことはなかった。
それでも、1968年のメキシコ五輪銅メダルの栄光やそのときのゴール映像は何度もテレビで見たことがあった。
子どもながらにその名声は知っていたし、サッカー好きでなくても銅メダルのゴール映像を見たことがある人は多いと思う。
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訃報を受け、釜本さんがかつて出演した丸大食品のCM(丸大焼肉)を思い出す人が多かったようだ。私もその一人だ。
「釜本さん、釜本さん、お元気ですか? モリモリですねー♪」
なつかしいフレーズと耳に残るメロディ。あのCMを見たのは何歳のころだったのか。おそらくサッカーを始める前のもっと幼いころだろう。
世代が違うため、私にとっての印象といえば、Jリーグ開幕当初にガンバ大阪の監督を務めていたあのころ。選手ではない釜本さんだ。
スーツ姿に「西部警察」の大門刑事(渡哲也)みたいな渋いサングラスをかけていた。当時、テレビ番組でタレントがその風貌を見て「ヤ●ザか!」とツッコミを入れていた記憶がある…。
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詳しくは知らなかった釜本さんの武勇伝について、大人になってから深く知ることができたきっかけがある。
日本経済新聞の名物コラム「私の履歴書」だ。
あらためて調べると、2016年2月の掲載。当時、私が勤務する職場が日経新聞を購読していて、昼休みの時間に読んだ。
「私の履歴書」は、各界で一時代を築いたレジェンドたちが自らの半生を回顧する内容。その道を極めた人たちの話はどれも面白く、人生の教訓がいくつも散りばめられていた。
釜本さんのコラム連載は全28回。これが面白すぎた。
1944年4月、京都の生まれ。そのサッカー人生を知ることは、戦後からプロ化を経て発展していく日本サッカーの歴史を学ぶことにも通じた。
取り巻く登場人物は聞いたことのある名前ばかり。
デットマール・クラマー、長沼健、岡野俊一郎、川淵三郎、杉山隆一、八重樫茂生、松本育夫、森孝慈、加茂周、吉村大志郎、奥寺康彦…。皆、日本サッカーの成長を支えてきたレジェンドたちである。
一人称で語られる釜本さんの逸話の数々に惹き込まれ、読みふけった。
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また読み返したくなるときが必ずくる――。
そう確信した私は、職場の複合機でこっそり新聞をスキャンし、連載28回分を一つにまとめてPDFに保存した。
そして予想通り、また読みたくなったわけである。
10年近くぶりに読み返したが、やはり面白い。
日本サッカーリーグ(JSL)の話、日本代表の裏話。ドイツでの短期武者修行の話。世界的な名選手との秘話など。「そんなことがあったのかー」と驚く話が多く、どれも興味深い内容ばかりだった。
日本サッカー史における「貴重な資料」だと感じた。
一方で、関西人らしく、釜本さんはときに過去のエピソードに自らツッコミを入れたりする。爆笑してしまう内容も多く、楽しめた。
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印象に残った秘話(爆笑話を含む)のほんの一部を紹介したい。
・中学校では野球部に入るつもりだったが、小学校時代に京都紫光クラブ(教職員チームでJリーグ・京都パープルサンガの前身)の現役選手だった教師がいた。その教師の言葉を母親から聞かされ、心変わりしたという。内容は「野球をやってもせいぜい行けてアメリカくらい。サッカーは世界中のどこでもやっているし、オリンピックにも出られるかもしれへん」。
・高校時代に京都府サッカー協会が企画したクリニックに参加。初対面のデットマール・クラマー氏(後の日本代表監督)から「悪い見本」とプレーをこき下ろされた。1メートル77センチの高身長にもかかわらず、スローな動きだったため、「ホッカイドウ、クマ、ヒルネ(昼寝)」と情け容赦ない言葉を浴びせられたという。
・早稲田大学を卒業した後に入社したヤンマーの初任給は手取り2万7000円。契約金はなく、ヤンマー人事部の人が持って来たのは老舗の塩昆布の土産だけだった。
・ヤンマー入社後、最初の3年は「機械計算課で仕事のまねごともした」と振り返る。コンピューター導入を控え、事前勉強が必要になると、「カタカナ読むの苦手です」と断わった。すると、「もう仕事はせんでええ」とサッカーに専念させてくれたという。
・1968年メキシコ五輪の1次予選B組最終のスペイン戦は、互いに「勝ち」と「1位通過」を譲り合う妙な試合展開になった(準々決勝の相手となるA組2位の開催国メキシコとの対戦を避けるため。73分に長沼監督から指示が出た)。試合中のスペイン選手について、「私がドリブルすると道を開け、シュートを外したら両手を広げ『なんでやねん』みたいな顔で私を見た」と振り返る。(爆笑)
・1980年12月にスペイン・バルセロナに開催された慈善試合に世界選抜のメンバーとして出場。ヨハン・クライフは「パーティーでもロッカーでも一番気にかけてくれた」という。1984年東京での釜本さんの引退試合に誘うも、「クライフ本人は出る気でいたが、条件が合わず見送られた」という。残念な気持ちがつづられている。
・1995年、早大の先輩である自民党の森喜朗幹事長(当時)に説得され出馬し、参議院議員に比例当選。議員時代について、「6年間の議員生活は牛歩戦術とか面食らうことが多かった。恩師のクラマーさんに『クマ』と言われたがウシになるとは思わなかった」と振り返る。(爆笑)
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日本代表の国際Aマッチで76試合75得点の記録を持つ釜本さん。昔の日本代表は海外の強豪クラブと対戦することも多かったため、それが各国代表だったら記録はもっと多かったと言われる。
そんな釜本さんがコラムを通じて再三伝えていたのがキックへのこだわり。
「真っすぐ強いボールを蹴ること」にこだわり、探究心をもって鍛錬を積んできたと記す。そして「結局は蹴って、蹴って、蹴り込んで自分で足のスイートスポットを見つけ、ボールの軌道を操る感覚を養っていくしかない」と説く。
また、得点には「シュートを打つ意志の有無」が必要だと強調。
自らの記録を塗り替えた日本代表歴代最高83得点の澤穂希を例にあげ、「私はFW、彼女はMF。ゴールはポジションではなく意志が大切なことを澤が証明している」とつづる。
釜本さんの「私の履歴書」は日経新聞電子版の有料会員になればオンライン上で読めるようだ。
本当に面白いのでお勧めです。〈一部敬称略〉