【“私だけ”がときめいた、あのプレー】レオナルド/ブラジル代表/1994年
“私だけ”がときめいた…。皆さんには、心に残るそんなサッカー選手のプレーはないだろうか。私にはある。他人が見れば「ただの上手いプレー」だが、やたらと脳裏に焼きつき、向上心をかき立てられたプレー。スロー再生を繰り返し、何度も見てしまったプレー。そんな“私だけ”がときめいたプレーを映像とともに紹介したい。興味のない方はスルーで…。 |
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かつてJリーグの鹿島アントラーズで活躍した左利きの「貴公子」、元ブラジル代表MFのレオナルド。
鹿島退団後はパリ・サンジェルマンやACミランでもプレー。ワールドカップ(W杯)は1994年と1998年の2大会に出場し、いずれも優勝と準優勝の栄光を手にした。ブラジル代表では10番を背負った時期もある。
そんな現役バリバリの「セレソン」が、産声をあげたばかりのJリーグでプレーしたというあり得ない歴史。プレーだけでなく、その人柄も愛された「ナイスガイ」のレオナルドだからこその“必然”だろう。
数々のスーパープレーを残してきたレオナルドだが、“私だけ”がときめいたプレーを紹介したい。
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舞台は1994年のW杯アメリカ大会。
24歳のレオナルドはブラジル代表の左サイドバックとして出場した。前年のトヨタカップ決勝にサンパウロFCのMF10番として来日していたので違和感があったが、本職のブランコが怪我で控えという事情がブラジルにはあった。
ちなみに、私がW杯の試合をテレビを通じてしっかり見るようになったのはこの1994年アメリカ大会からだ。1990年イタリア大会時はまだ中学生でじっくり見たという実感がない。
高校生だった1994年大会は、たしか放送されたすべての試合をビデオ録画するほどの意気込み。
そんな意気込みで見た予選グループBのブラジル対カメルーン戦だった。前半10分のプレーに私の心は根こそぎもっていかれたのである。
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攻撃的なサイドバックとしてアップダウンを繰り返していたレオナルドが、左サイドの高い位置でMFライーから出た縦パスを受けようとした。
だが、トラップの瞬間を狙ってカメルーンの選手がスライディング。ボールを挟んで両者が交錯しそうな瞬間だった。
レオナルドはとっさの判断でトラップをせず、ボールを流し、軽やかなステップでカメルーン選手のスライディングを「すかした」のだ。
このプレーをきっかけにブラジルはゴール前にいるFWロマーリオまでボールをつないだ。得点にこそならなかったが、スタンドの観客は沸き立った。
「うわー、かっけぇ、、」
“ディフェンダーらしからぬ” 華麗かつテクニカルなプレーで輝きを放つレオナルド。私のときめき指数はマックス状態だった。
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その後もレオナルドの果敢なオーバーラップは続いた。
ピッチの外を駆け上がるだけでなく、内にドリブルしてスルーパスを出したり、ペナルティエリア内でボールを受けてシュートを打ったり。
「こんなに攻撃的でかっこいいサイドバックいる!?」
世界的に見れば、ほかにも攻撃的なサイドバックはいたのかもしれない。でも、レオナルドは「ただの攻撃的」ではなかった。ボールタッチが柔らかく、華麗すぎるのだ。おまけに端正なルックス。ずるい。
私はこんなサイドバックを見たことがなかったし、知らなかった。
あの当時、日本で攻撃的サイドバックといえば、都並敏史氏(元日本代表)の名前があがる時代だった(都並さん、すみません…)。とにかく、センセーショナルだった。
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ブラジルはこの大会で優勝。しかし、レオナルドは決勝トーナメント1回戦のアメリカ戦で一発退場し、それ以降の試合は出ていない。
だから、テレビを通じて見ることができたレオナルドのプレーはこのカメルーン戦と前半43分に退場したアメリカ戦の2試合のみ(おそらく)。
それでも、たった1試合半のプレーでも、私はその魅力に取りつかれてしまった。
不完全燃焼のW杯デビューも、レオナルドには強豪クラブからオファーが殺到したという。なのに、自身の「アイドル」と敬愛するジーコとの約束を守り、大会後に鹿島入り。日本に来るなんて信じられなかった。
カメルーン戦で見たあのプレーは、レオナルドが私の「アイドル」になったきっかけである。
右利きの私が左足の練習に真剣に取り組む原動力になったし、プレーを真似したくてしょうがなかった。とにかく、レオナルドに近づきたかったのである。
(了)
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