高校サッカー

おれたちの青春!「全国高校サッカー選手権大会」の歴史をたどる(1/2)

全国高校サッカー選手権大会
(source: De,CC BY 3.0,via Wikimedia Commons)

 「全国高校サッカー選手権大会」の歴史は1918年に始まった。近年は冬の風物詩として毎年脚光を浴びる大会だ。サッカー部に所属する高校生たちの「夢の舞台」であり、「青春」そのもの。プロ選手や日本代表を多く輩出し、日本サッカーへの貢献も大きい。

 いまでこそ首都圏開催だが、始まりから約半世紀は関西が舞台だった。戦前は、日本の植民地だった朝鮮半島の学校が出場したことも。サッカーファンの心に思い出として残り続ける、通称「選手権」。その歴史をたどる。(全2回―1/2)

ラグビーと合同で大会を開催  1918年に大阪・豊中で始まった

 「全国高校サッカー選手権大会」の歴史は、1918(大正7)年に大阪・豊中村(現・豊中市)で開催された「日本フートボール優勝大会」から始まった。

 実は、この大会の企画を持ち込んだのは、日本のラグビー普及に貢献したことで知られる杉本貞一氏(元慶應義塾大学ラグビー部主将)だった。大阪在住の杉本氏はラグビーの大会を開きたかったが、当時関西にはラグビーチームが4つしかなかったという。そこで主催の大阪毎日新聞社は、神戸を中心に盛んだったサッカーを加え、2競技の合同大会として開催にこぎつけた。 

 「フートボール」は「Football」のカタカナ読みで、当時はサッカーとラグビーの両方を指す名称だった。サッカーは「アソシエーション式(ア式)フットボール」、ラグビーは「ラグビー式(ラ式)フットボール」と区別され、「ア式蹴球」「ラ式蹴球」とも呼ばれた。だから、ひとくくりの大会にしても違和感はなかったのだ。

 ここで日本サッカーの始まりについて簡単に説明しておきたい。

豊中グラウンド
第1回フートボール優勝大会が開催された豊中グラウンド。歴史はここから始まった。写真は1913年ごろ(source: city.toyonaka.osaka.jp

 日本にサッカーが伝わったのは1860年代の江戸時代末期。開国後に渡来したイギリス人によって伝えられた。

 その後、サッカーは「高等師範学校」(教員を養成する学校)で教育として取り入れられ、そこで学んだ生徒たちが教師となって全国各地へ赴任。広く普及していった。

 こうした中、「サッカー熱」を一気に高めたのが、1917年に東京で開催された「第3回極東選手権大会」だ。“日本サッカー史上初の国際試合”として知られ、日本代表として東京高等師範が出場した。

 第3回極東選手権大会が大きな反響を呼ぶと、翌1918年から全国各地でサッカー大会が開かれるようになった。その一つが、大阪・豊中で開催された「日本フートボール優勝大会」だったわけである。(「日本サッカー幕開けの歴史とJFA創立100周年(1/2)同(2/2)に詳細)

 全国的な「サッカー熱」を背景に、1921(大正10)年に「大日本蹴球協会」(現・日本サッカー協会)が設立。同年に始まった「全国優勝競技大会」は、現在の「天皇杯全日本サッカー選手権大会」として現在も続く。

 つまり、高校サッカー選手権の歴史は、日本サッカー協会や天皇杯の歴史よりも、3年早いのである。

高校サッカーだけじゃない、発祥の地「豊中グラウンド」

 「高校サッカー発祥の地」とされ、第5回大会まで会場として使用された豊中グラウンドは、いまはもうない。阪急電鉄・豊中駅から徒歩5分の場所にある跡地を訪れると、意外な事実を知らされる。

 跡地は「高校野球発祥の地記念公園」として整備され、当時の赤レンガ塀や門柱が再現されたメモリアルスポットになっている。

豊中グラウンド跡地
跡地につくられた「高校野球発祥の地記念公園」。赤レンガ塀や門柱が再現されている(source: Miya.m,CC BY-SA 4.0,Wikimedia Commons)

 この地を発祥としているのは高校サッカーだけではなかった。合同大会として始まった高校ラグビーはもちろん、あの「甲子園大会」で知られる高校野球の始まりもまた、豊中グラウンドだという。

 豊中グラウンドは、阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が1913年に建設。しかし、1922年に総合スポーツセンターの一部として新設された宝塚グラウンドの開業により、同年に閉鎖された。9年という短い歴史だった。

 残念ながら、跡地に高校サッカー発祥を伝えるレリーフはないという。

第9回大会から予選通じた全国大会に 朝鮮半島の学校も出場

 「日本フートボール優勝大会」(第2回から「フットボール」と表記)は、第1回から第8回大会までは関西の旧制中学や師範学校による招待制で行われた。

 予選を通じた全国大会になったのは、1926(大正15)年の第9回大会からだ。この大会からラグビーと分離され、独立したサッカー大会になった。名称も「全国中等学校蹴球選手権大会」に変更された。

 全国大会になると、当時日本の植民地だった朝鮮半島の学校も出場。政府が進める「内鮮一体」と呼ばれる同化政策の一環だった。平壌(ピョンヤン)の崇実中学は第10回大会で、ソウルの普成中学は第22回大会でそれぞれ優勝し、優勝旗が朝鮮半島へ渡った歴史もある。なお、第20・21・22回の3大会には、同じく植民地の台湾代表が出場した。

 一方、このころ関西以外の地域でも中等学校のサッカー大会は存在した。「全国大会」と釘打つ大会も多く、「全国大会の一本化」の必要性が取りざたされた。

by KEGEN PRESS編集部
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