高校サッカー

「サッカーバカ」の原点は、「高校サッカー」だったかもしれない

(source: via Wikimedia Commons)

 この冬、第100回の節目を迎えた「全国高校サッカー選手権大会」。サッカー経験者の多くの人の心に青春時代の思い出として残る。遠い過去の人ほど、「自分のころは何回目だったのだろう」と振り返っているのではないだろうか。

 「サッカーバカ」を自称する私だが、思えば、その原点は高校サッカーだったかもしれない。というのも、サッカーにのめり込むきっかけの一つだったからだ。

高校サッカーの「注目選手」だったM先生との出会い

 小学4年生の夏休み。私は北海道の札幌市から、茨城県南部にある小さな町に引っ越した。

 転校先にはサッカー少年団があり、経験者のN先生(教師)が指導していた。活動は小学5、6年生の2年間だが、4年生の終わりごろから仮入部があった。「サッカーをやりたい!」というわけではなかったが、仲良くなった友達に誘われ、なんとなく仮入部に参加した。

 仮入部が終わりに近づくころ、N先生の転勤(異動)が噂になった。「サッカー少年団はどうなる?」と思ったが、N先生の大学の後輩が赴任するという。噂どおり、N先生は転勤した。私は5年生に進級し、正式に少年団に入部。そして、このタイミングで着任したのが「M先生」だった。しかも、5年生の担任として。

 この「M先生」こそが、私に初めてサッカーを教えてくれた恩師である。

 日本体育大学を卒業したばかりの新米教師で、「不撓不屈」を座右の銘とする“熱血漢”だった。背は高くないが、堀の深い顔立ちでカッコよく、なんせサッカーがうまい。私の隣のクラスの担任になった。M先生のクラスの「団結力」は、長縄飛び大会などのクラス対抗行事で他を圧倒した。

 私が「高校サッカー」の存在を知ったのはこのころである。サッカーを本格的に教わり始めてまもなく、M先生が過去に「全国高校サッカー選手権大会」に出場したことを話してくれたからだ。

 M先生はかつての那珂湊市(現・ひたちなか市、水戸市の隣)の出身で、高校は県内でサッカー名門の水戸商業高校に入学。1年生のときに全国大会に出場したという。

 話を聞いただけではピンとこない子どもの私たちに対し、M先生はとんでもない説得力のある「証拠」を見せてくれた。某サッカー雑誌である(ダイジェストかマガジンか、覚えていない)。

 全国大会直前の特集記事の中で、なんとM先生が「注目選手」の一人として写真付きで紹介されていたのだ。 1年生なのに…。M先生はその後、年代別の日本代表を決める最初の選考合宿にも選ばれたらしく、「おれも、半分だけ日の丸を付けたんだけどなあ」と悔しそうに笑った。

 小学5年生の私にとって、それはもう、“衝撃の事実”だった。

 「自分はいま、サッカーで有名だった人に教えてもらっている」。子どもなので、単純にそう思った。私は、自分の両親にもそのサッカー雑誌を見せたくなった。M先生の許可を得て、1日だけ借りて自宅に持ち帰った。

小6、「茨城県大会決勝」を生観戦 釘付けに

 M先生にとって私たちは初めての教え子。指導にも熱が入り、基礎からみっちり教わった。

 サッカーの反則をイラスト付きで記した冊子をつくってくれたり、ビデオ録画した「ダイヤモンドサッカー」(テレビ番組)を視聴覚室でみんなに見せてくれたりした。また、町内にある他の少年団に働きかけ、3チームによるカップ戦を立ち上げるなど、情熱を注いでくれた。

 6年生になると、M先生が私の担任になった。クラス替えはなく、担任だけが横すべりで変わったのだ。熱い「学級づくり」を今度は身をもって体験し、あこがれはいっそう強くなった。

 そして、この年の秋、少年団の行事としてM先生が企画したのが「全国高校サッカー選手権茨城県大会決勝」の日帰り観戦ツアー。もちろん、母校の水戸商業が決勝まで勝ち上がったからである。M先生と一部の保護者が車を出し、会場の笠松運動公園陸上競技場まで数時間かけて向かった。

 サッカーの試合を生観戦したのはこのときが初めてだった。ピッチに立つ高校生がどれほど「大人」に見えたことか――。

 水戸商業の10番は、背は低かったが、マラドーナのようなずんぐりとした体型で、パンツがピチピチに見えるほど太ももが太かった。テクニックがあり、その10番がダブルタッチで相手DFをかわすと、スタンドの大観衆から「うぉー!」と歓声が上がった。その光景はいまもはっきりと覚えている。私ら子どもたちは、みんな目を輝かせ、釘付けになった。

 試合は水戸商業が勝ち、全国大会への切符をつかんだ。確か、PK戦までもつれた記憶がある。M先生は、知り合いなのか同級生なのかは分からないが、周りの人たちと「よかったねぇ!」などと話しながら、うれしそうに握手していた。

選手名鑑チェックが楽しみに 「情報収集」が日常化

 それ以来、高校サッカー選手権は、私にとって毎年待ち遠しいものになった。中学、高校と進むにつれ、熱は増していった。

 試合のテレビ中継やハイライト番組は必ずビデオ録画し、手本になるプレーは何度も見る。中学時代、第70回大会の準決勝で奇跡の逆転劇を見せた帝京高校や、その決勝点をアシストした司令塔の阿部敏之選手のプレーにはとにかく魅了されたものだ。

 とりわけ楽しみだったのが、開幕前にサッカー雑誌に付録される「選手名鑑」を見ること。注目選手やその出身中学、1年生なのにメンバー入りしている選手などをチェックするのが好きだった。

 また、大会後の「4月号」あたりに掲載される選手の進路(大学など)を確認するのも好きで、その後プロになったかどうかを追ったり、逆に、のちにプロ入りした選手を古い選手名鑑を読み返して見つけ、「このとき出てたんだ~」などと自分だけが発見したような気持ちになり、悦に入った…。

 自分のサッカーボールに油性の青マジックで高校サッカーのロゴマークを模写したこともある。いま思えばアホみたいだが、これは、かつてM先生がなぜか高校サッカーのロゴマークが印字されたヤスダ製のサッカーボールを持っていて(非売品だろうか)、自分も無性にほしかったからだ。とにかく高校サッカーが好きすぎて、描いてしまったのだろう。

 こうして振り返ると、私の「サッカーバカ」な一面は、高校サッカーに夢中になる過程でつくられていったと考える。

 「あの選手はその後どうなった」とか、「あの高校は元Jリーガーが監督になった」とか、「あの選手は○○高校出身だったのか」とか。こうした情報をたどっていくと、高校サッカーの枠を越え、他のカテゴリーにもつながっていく。自分の中で、サッカーに関する情報量はどんどん増えていくのだ。

 サッカーをプレーするだけでは満たされず、日常的にテレビや雑誌などで情報収集するようになったのも、「高校サッカー」を通じて身についた「習性」ではないか。原点と感じる。

 ちなみに、高校時代はレギュラーどころかメンバー入りすらできない下手くそだったので、地区予選を含め「選手権の試合」には1分も出ていない。私のサッカー人生における心残りの一つだ…。

(了)

by 北 コウタ
LINEで送る
Pocket