海外サッカー

塗り替えられたゲルト・ミュラーの記録。「4EVER GERD」-その栄光を振り返る

ブンデスリーガ40得点を挙げたロベルト・レヴァンドフスキ
40得点目を挙げた直後、ミュラーへの敬意を表したレヴァンドフスキ(source: fcbayern.com

 49年ぶりに、記録は塗り替えられた。

 「デア・ボンバー(爆撃機)」と呼ばれたドイツサッカーの伝説、ゲルト・ミュラーが成し遂げたブンデスリーガでのシーズン40得点である。ミュラーはFCバイエルン・ミュンヘン(以下、FCバイエルン)在籍時の1971―72年シーズンにその記録を打ち立てた。

 記録を破ったのは同じFCバイエルンの後輩、ロベルト・レヴァンドフスキ(ポーランド代表)。最終節で記録を更新し、わずか1点超えの41得点でシーズンを終えた。

 ミュラーの40得点に並んだ試合、レヴァンドフスキは偉大な先輩への敬意を忘れなかった。ゴール直後にユニフォームをまくり上げると、その下にはミュラーの似顔絵と「4EVER GERD(フォーエバー、ゲルト)」のメッセージが書かれたTシャツを着ていた。

 そのミュラーはいま、病床に伏している。

 アルツハイマー病による認知症を患ったのは2015年のことだ。昨年11月には病状が悪化し、危篤状態であるとドイツ紙『ビルド』が報じた。

「ゲルト、あなたは永遠に私たちの心の中にいる」。思いはミュラーに届いたのだろうか? その栄光を振り返る。

故郷ネルトリンゲンの地元クラブで頭角を現す

 ゲルト・ミュラーは終戦まもない1945年11月3日、ドイツ南部バイエルン州のネルトリンゲンに生まれた。

ドイツ南部バイエルン州のネルトリンゲン
ミュラーが生まれたネルトリンゲンの街(source: Wolkenkratzer/via Wikimedia Commons)

 ネルトリンゲンは、中世の美しい街並みが残る観光ルート「ロマンティック街道」沿いにある。1500万年前の隕石落下によってできた盆地に造られた小さな街で、円状の城壁が旧市街をすっぽりと囲む。上空からの景観は特徴的で美しく、日本の人気漫画『進撃の巨人』のモデルとなったと言われる。

 ミュラーはそのネルトリンゲンで、幼いころから街の少年たちと路上でサッカーを楽しんだ。そして1958年、12歳のときに地元のクラブ・TSV1861ネルトリンゲンに入団。本格的にサッカーを始めるとすぐに夢中になった。14歳で中学校を卒業すると、織工見習いとして工場で働きながらクラブに通ったという。

 得点感覚は当時から突出していた。頭角を現したのは1962―1963年シーズン。17歳のころだ。チームの総得点204のうち、180得点をミュラーがあげたというから驚異的だ。活躍が認められ1963年にトップチームと契約すると、ルーキーイヤーの28試合で47得点をたたき込んだ。クラブのナショナルリーグ(ひとつ上のカテゴリー)昇格に大きく貢献した。

■ ミュンヘン伝統の2クラブが争奪戦

 ミュラーの噂を聞きつけ、地元にある2つの伝統クラブが争奪に動いた。かつて日本代表の大迫勇也が所属した1860ミュンヘンとFCバイエルンである。

 いまでこそミュンヘンといえばFCバイエルンが有名だが、当時は1860ミュンヘンの方が強かった。西ドイツ代表を含むトップクラスの選手が揃い、1963年のブンデスリーガ発足時に初年度参入が認められたのはFCバイエルンではなく、1860ミュンヘンだった。

 しかし、そこでミュラーは考えた。「1860ミュンヘンは選手層が厚い。レギュラーになれる可能性があるのはFCバイエルンの方だ」

 ミュラーはFCバイエルンを選んだ。1964年7月に4年契約を結び、18歳でプロ生活をスタートさせた。

by KEGEN PRESS編集部
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