訪れてみたい、“サッカー侍”が戦った街 ― ザンクトパウリ(ドイツ/ハンブルク番外編)
2部在籍、タイトル獲得経験なし。それでも人気のFCザンクトパウリ
FCザンクトパウリ(FC St.Pauli)は1910年創設の総合スポーツクラブ。前身の体操クラブの中から、1899年ごろに愛好者によるフットボール部門が発足したのが始まりだ。
1910年に北ドイツサッカー協会に加盟。これをクラブの創設年としている。チームカラーである茶色と白のユニフォームはその当時から使用するという。
1924年に「FCザンクトパウリ」として体操クラブから独立した。その後、1974年にブンデスリーガ2部が創設されたのを機に、プロクラブとして2部リーグに参加。1977年に初めて1部に昇格したが、1シーズンで降格している。
創設以来、ブンデスリーガ1部に在籍したのはわずか8シーズンのみ。2部在籍が長く、財政問題で3部に降格したこともある。国内外でのタイトル獲得経験は一度もない。(2023年10月時点)
クラブは強豪とも、古豪とも言えない。それにもかかわらず、ドイツ国内では屈指の人気を誇る。さらには、世界中に約2000万人の熱狂的なサポーターがいるというから驚きだ。
地元住民の政治運動から生まれたクラブ公認の「ドクロマーク」
なぜ、そんなに人気があるのか。
FCザンクトパウリといえば、「ドクロ(頭蓋骨)」を公式マークとして採用する“異色”のクラブして知られるが、人気の理由はそのドクロマークにある。
さかのぼること1980年代。ハンブルクでは再開発計画が持ち上がり、多くの建物が取り壊されることになった。だが、一部の住民が立ち退きに反対し、空き家を不法占拠。抗議活動を起こし、当局と対立した。
当時のヨーロッパでは、反体制、反商業主義などを主張する労働者の政治運動として「不法占拠運動」なるものが広まっており、ドイツでも浸透していたのだ。
不法占拠者の多くは左翼的な思想をもつ政治的グループだ。当局との争いが激しさを増すと、かれらを支援するアーティストやミュージシャン、同性愛者団体など、反体制でリベラルな思想を持つ人々がハンブルクに集まり、コミュニティを形成した。
その拠点があったのがザンクトパウリ地区だ。そして、このときにかれらが反対運動の旗印として掲げたのが、海賊の象徴とされる「ドクロ」マークだった。
クラブのホームスタジアム「ミラントア・シュタディオン(Millerntor-Stadion)」は歓楽街レーパーバーンから目と鼻の先にある。
ある日、不法占拠者の一人であるパンク歌手がドクロの海賊旗をスタジアムに持ち込んだ。これが最初のきっかけとされている。
ドクロを掲げて反商業主義、反差別を主張 “異色”のクラブに
ドクロの旗を掲げるサポーターは増え、いつしかクラブの象徴になった。
サポーターの言動はクラブを動かし、しだいに理念や活動方針などに影響。商業主義やファシズム、人種や階級、同性愛などの差別に断固反対の立場をとる左翼的な“異色”のクラブへ変わっていった。
例えば、スタジアムのネーミング・ライツは反商業主義を理由に導入していない。
同性愛者への支援を示すためにスタンドにレインボーフラッグを立て、試合を行ったこともある。
スタンドには「KEIN MENSCH IST ILLEGAL(違法な人間などいない)」というメッセージを掲げ、強く主張する。
FCザンクトパウリが世界中のサポーターから愛され、支持される理由は、こうしたクラブの姿勢や主義、社会活動に共感する人々が国や地域を超えて存在しているからである。
“裕福なクラブ”には負けられない! 譲れないダービー戦
同じハンブルクをホームタウンとし、資金力が豊富な名門ハンブルガーSV(以下、HSV)の存在もまた、サポーターがドクロの旗の下に団結する理由の一つだ。
「労働者階級が支えるクラブ」だという意識が、ライバル心、対抗心を強くさせている。“裕福なクラブ”には負けられないのだ。
HSVは1963年のブンデスリーガ創設以来、一度も2部に降格していない唯一のクラブだったが、2018年に初めて2部に降格。ここ数年は熾烈なダービーマッチが繰り返されている。サポーターにとってはイデオロギーの対立をはらむ譲れない戦いだ。
2019年9月16日、“ドクロのサポーター”は歓喜の雄叫びをあげた。
ブンデスリーガ創設前の1960年以来となる59年ぶりにホームでHSVを打ち負かし、ダービーを制したからだ。この歴史的勝利には宮市亮もプレーで貢献した。
それ以来、クラブはホームでのダービーマッチに負けていない(2023年10月時点)。低迷期が続くHSVとの実力の差は縮まっているようだ。
(了)
*… 日本サッカープロ第1号としてドイツで活躍した奥寺康彦氏に続いて、ドイツリーグ史上2人目の日本人選手として1983年にアルミニア・ビーレフェルトに加入。5シーズンを過ごし、1988年にFCザンクトパウリに移籍した。帰国後は三菱自動車工業(現浦和レッズ)を経て、1993年にヴェルディ川崎で現役を引退。