カルチャー

訪れてみたい、“サッカー侍”が戦った街 ― ペルージャ(イタリア)

丘の上に築かれたペルージャの街
古代エトルリア人が丘の上に築いたペルージャ。まさに城塞都市だ(source: Wikimedia Commons)
 日本サッカーの成長とともに、いまや日本人選手の海外移籍は後をたたない。それはヨーロッパのみならず、世界各国に及んでいる。そんな“サッカー侍”たちが、かつて戦った街がある。いま戦っている街がある。それだけで、「いつか訪れてみたい…」。そう思わせる魅力がある。

中田英寿が衝撃の「セリエA」デビューを飾った街

 イタリア中部にあるウンブリア州の古都ペルージャ。元日本代表の中田英寿が初の海外挑戦の舞台に選んだ街だ。

 中田といえば、際立つ個性とストイックさで日本サッカー史に確かな足跡を残した孤高のレジェンド。20歳でフル代表デビューし、すぐに攻撃の中軸を担った。日本をFIFAワールドカップ(W杯)初出場(1998年フランス大会)へと導いた立役者の一人だ。

ペルージャ時代の中田英寿
中田の海外挑戦はペルージャの街から始まった(source: getty images)

 W杯後の1998年7月、中田はベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)からイタリア1部・セリエAに所属するACペルージャへ移籍した。当時のセリエAは、各国から一流選手が集まる「世界最高峰のリーグ」と呼ばれた。

 ペルージャ在籍は1年半と短い。だが、中田の存在はサポーターの記憶に強烈な印象として残る。衝撃のデビュー戦はいまも語り草だ。

 セリエA1998-1999シーズンの開幕戦。セリエBから昇格したばかりのペルージャはホームに前季王者のユベントスを迎えた。

 ジダン、デルピエロ、インザーギ、ダービッツ…。スター軍団のユベントスは前半で3-0とペルージャを圧倒。ところが、後半に中田が立て続けに2ゴールを奪って王者に詰め寄ると、会場は騒然となった。

 試合は4-3でユベントスが勝利。だが、観客の視線を釘付けにしたのは21歳の「侍」だった。中田はその後、シーズン10得点の活躍を見せた、日本サッカーの絶対的エースに君臨していく。

古代エトルリア人が丘の上に築いた「城塞都市」

ペルージャ地図
ペルージャは赤い★の地点

 イタリアのほぼ中央に位置するペルージャ。人口約16万人の小さな街はのどかでこじんまりとしている。それでもウンブリア州の州都で、ペルージャ県の県庁所在地。首都ローマからは列車で約2時間半の距離にある。

 ウンブリア地方は丘陵地が多く、自然が豊かだ。「イタリアの緑の心臓」とも呼ばれる。鮮やかな緑が広がるこの地域はブドウやオリーブの栽培が盛んだ。

 古代ローマ以前、このあたりには「エトルリア人」という先住民族が住み、文明が栄えた。ペルージャはそのエトルリア人が築いた城塞都市。小高い丘の上にあるのが特徴だ。

 中世に交易で繁栄し、ウンブリア地方の政治、経済、文化の中心を担った。さらにルネサンス文化の開花とともに学芸面も勃興。ペルージャ大学の創立は1308年と歴史が古い。

中世の街並み、城壁が残るペルージャ 「学生の街」でも有名

ペルージャの11月4日広場
11月4日広場。左手にあるプリオーリ宮殿と噴水が目印だ(source: Wikimedia Commons)

 街の中心は、旧市街にある「11月4日広場」。彫刻の噴水と白亜のプリオーリ宮殿(市庁舎)が目印だ。広場は第一次世界大戦の勝利を記念して名付けられた。

 広場付近はちょうど街の最上部にあたる。いわゆる丘の頂上だ。そのため、どんなに道に迷っても、坂道を上がれば街の中心に戻れるという。旧市街を南北に貫くメインストリート「ヴァヌッチ通り」もこの広場に通じている。

 中世のゴシック建築が多い街並はまるで過去にタイムトリップしたよう。重厚な城壁も現存し、一角にある「エトルリア門」は名前の通りエトルリア時代(紀元前3~4世紀)の遺跡だ。巨大な切石を積重ねた門構えは迫力満点で見るものを圧倒する。

エトルリア門
巨大な切石を積み重ねたエトルリア門。迫力に圧倒されてしまう(source: umbriatourism.it)

 一方、ペルージャは「学生の街」としても知られ、イタリア全土から学生が集まる。歴史あるペルージャ大学のキャンパスが点在する。

 また、外国人がイタリア語やイタリア文学を学ぶための国立「ペルージャ外国人大学」があることでも有名。

 各国の留学生が行き交う街は国際色豊かで活気にあふれている。交換留学制度を結ぶ日本の大学も少なくない。

■見逃せない地下遺跡「パオリーナ要塞」

 歴史遺跡の中でも見逃せないのが地下に残る「パオリーナ要塞(Rocca Paolina)だ。

地下要塞のロッカ・パオリーナ
迷路のような通路と居住空間が広がるパオリーナ要塞(source: Wikimedia Commons)

 16世紀、教皇領に属するペルージャは海塩の課税に反対し、教皇軍と戦った。「塩戦争」と呼ばれる。戦いに敗れたペルージャの街は教皇軍に包囲された。教皇支配の象徴として造られたのがパオリーナ要塞だ。

 「負の遺産」を嫌う市民により、建物自体は19世紀に取り壊されたが、旧市街の地下に広がる迷路のような通路や居住施設がほぼ完全な形で残っている。

 この地下遺跡には現在、丘のふもとと頂上付近の旧市街を結ぶエスカレーターが整備され、市民生活に重要な交通路になっている。

 郊外から街を訪れ、旧市街へ向かう観光客がまず目にして度肝を抜かれる“ペルージャ名物”だ。

プリオーリ宮殿に飾られるグリフォンのブロンズ像(左)
街のシンボル「グリフォン」と伝承
 
 ペルージャでは、市章、県章、ペルージャ大学やサッカークラブのエンブレムなど、多くに「グリフォン」(英語の発音はグリフィン)が描かれている。グリフォンは古くから市民に愛される街のシンボルだ。
 
 グリフォンとは、鷲の上半身とライオンの下半身をもつ伝説の生き物である。神話上では、勇気と知性、高貴さをもつ守護神として言い伝えられる。また、「鳥の王」と「獣の王」が合体していることから「王家」の象徴ともされ、国家や都市の紋章、企業やスポーツクラブのロゴなど世界中で広く使用されている。
 
 イタリアに“グリフォン信仰”を持ち込んだのは先住民のエトルリア人とされている。エトルリア時代の出土品の中に、グリフォンが描かれているものが見つかったからだ。よって、紋章にグリフォンを描く都市はペルージャ以外にも複数存在する。
 
 ペルージャの公式シンボルとして、グリフォンが市章や文書などに登場したのは13世紀。市庁舎「プリオーリ宮殿」の正面外観にはグリフォンとライオンのブロンズ像が飾られており、市民を見守っている(外観のものはレプリカで、1218年製造の実物は宮殿内のホール入口に展示)。
 
 そんなペルージャのグリフォン伝承には面白い話がある。
左が白いグリフォンを描いたペルージャの紋章。右がナルニの紋章

 
 中世のころ、ペルージャは同じウンブリア地方にあるナルニと対立関係にあった。争いの絶えない両地域だったが、共通の悩みがあった。狂暴なグリフォンが家畜を襲い、住民を苦しめていたのだ。
 
 脅威を前に双方の王家は手を結び、同盟軍を組織。グリフォンを退治した。そして、その死骸を戦利品として分け合ったという。このとき、ペルージャはグリフォンの「皮」を、ナルニは皮を剥いだ「体」をそれぞれ持ち帰った。
 
 こうして、「皮」を持ち帰ったペルージャでは白いグリフォンが描かれるようになった。一方のナルニでは、「皮を剥がれた」赤いグリフォンが描かれる。共通するのは、いずれのグリフォンも「暴れている」ことだ。

イタリア土産の定番「Baciチョコレート」の発祥地

 イタリア土産の定番として人気の「Baci(バーチ)チョコレート」はペルージャ発祥だ。ヘーゼルナッツ入りの一口サイズのチョコレートで世界的に有名。日本でもよく知られる。

バーチチョコレート
ペルージャ発祥のBaciチョコレート

 手掛けるのは、ペルージャで1907年に創業したペルジーナ社(Perugina)。現地の工場は見学が可能でチョコレート博物館もある。

 こうした背景をもつペルージャは、チョコレートを通じた「街おこし」にも力を入れる。毎年10月に欧州最大級のチョコレートの祭典「EuroChocolate(ユーロチョコレート)」が開催され、多くの人でにぎわう。

by KEGEN PRESS編集部
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