日本サッカー幕開けの歴史とJFA創立100周年(1/2)
1871(明治4)年に文部省が創設されると、明治新政府は教育制度の西洋化を進めた。体育教員・指導者の養成機関として設置した「体操伝習所」では、アメリカ人の指導者を招いてテニスやベースボールとともにフットボールも教育に取り入れられた。
その後、1886年にこの体操伝習所を体操専修科として吸収したのが、同じく教員養成機関である「高等師範学校」である。
■嘉納治五郎の校長就任が転機 「フートボール部」誕生
大きな転機は1893(明治26)年。柔道の創始者で「日本体育の父」と言われる嘉納治五郎が高等師範学校の校長に就任し、スポーツを奨励。1896年に学内に「運動会」組織がつくられると、組織を構成する8つの運動部の一つとして「フートボール部」(Footballのカタカナ読み)が誕生した。
流れを整理すると、体育教員の養成機関である体操伝習所でフットボールが教えられ、その体操伝習所がのちに高等師範学校に吸収される。そしてスポーツを推奨する嘉納治五郎の校長就任が転機となり、「フートボール部」誕生につながったわけだ。
「フートボール部」は1903(明治36)年、日本で最初のフットボール専門書『アッソシエーション・フットボール』を出版。競技規則的な内容や練習方法などが記したものだ。翌1904年には「蹴球部」に改称され、外国人指導者を招いて対外試合を行うなど活動を本格化させていく。
また、このころからフットボールはスポーツとしての「サッカー」に変わっていった。そして、高等師範学校「蹴球部」の卒業生たちが全国の師範学校へ赴任したことで、全国各地へ広がっていったのである。
■ 埼玉師範学校の校舎「鳳翔閣」は浦和レッズのエンブレムに
埼玉大学の前身である埼玉師範学校は「埼玉サッカー発祥の場所」とされている。
1908(明治41)年、高等師範学校でサッカーを学んだ細木志朗氏が教員として赴任し、蹴球部を創設した。これが原点となっている。
細木氏は、木材を使って自らゴールポストを作るなど熱心にサッカーを指導。その教え子たちがのちに県内の学校へ赴任し、今度はサッカーを教えた。こうして埼玉県のサッカーの歴史は築かれていったのである。
その埼玉師範の校舎だった「鳳翔閣」は「埼玉サッカー」の歴史の象徴とされている。
実は、Jリーグ・浦和レッドダイヤモンズのエンブレムにデザインされているのだが、あまり知られていない。エンブレムを見ると、確かに鳳翔閣が描かれており、埼玉サッカーの歴史と伝統を受け継いでいることがよくわかる。
総本山ともいえる東京の高等師範学校はその後、時代とともに東京高等師範学校、東京教育大学、筑波大学と名称を変えていった。
なるほど、筑波大学がこれまで多くのサッカー日本代表選手を輩出して日本サッカーをリードしてきたこと、また日本のスポーツ科学の研究拠点として大きく貢献してきたことが納得できるだろう。