カルチャー

日本サッカー幕開けの歴史とJFA創立100周年(2/2)

東京・文京区本郷にある日本サッカー協会(2021年現在)

 6月の強化試合、日本代表やU-24代表は鮮やかなサックスブルーの復刻版ユニフォームを着てプレーした。日本サッカー協会(JFA)の創立100周年を記念してつくられたものだ。

 日本サッカー協会は1921(大正10)年9月10日に「大日本蹴球協會」として発足した。協会の歴史はそこから始まったが、日本にサッカーが伝わったのはそれよりもう少し前のこと。サッカーの母国イギリスとのつながりがあった。日本のサッカー幕開けの歴史の流れをたどる。(全2回―2/2)

日本サッカー幕開けの歴史とJFA創立100周年(1/2)の続き

極東選手権大会の日本開催を機に「サッカー熱」高まる

 1870年代にイギリス人によって伝えられたフットボールは、高等師範学校で教育として取り入れられ、1900年代に入るとスポーツとしての「サッカー」に変わっていった。そして高等師範でサッカーを学んだ生徒たちが全国各地へ教師として赴任し、全国的に広がった。

 こうした中、フィリピンのオリンピック委員会が提唱して始まった「極東選手権大会」というスポーツの国際大会が日本の「サッカー熱」を煽ることになる。

 なぜ、フィリピン提唱なのか。それはフィリピンが長く欧米諸国の植民地だったことに起因する。1529年からスペイン領時代が続き、1898年に始まったアメリカとスペインによる米西戦争の結果、その後は1945年までアメリカに統治された。早くから西欧のスポーツ文化の影響を受けていたとされる。

 極東選手権大会は、1913(大正2)年に第1回大会がマニラで開かれ、日本、フィリピン、中華民国の3カ国が参加した。その後は2年に1度開かれ、第2回は1915年に上海で、第3回は1917年に東京で開催された。ただ、日本が初めてサッカー競技に参加したのは第3回大会からであった。

 当時、日本には国内サッカーを統括する組織がなかった。日本代表選手を選抜するという発想もなく、出場チームを決める予選大会が開催されることになった。しかし、関西代表の御影師範が当日に不参加となるなど予選大会は行われず、最終的に東京高等師範が第3回極東選手権大会に日本を代表して出場したのである。

■1917年、東京で日本サッカー史上初の国際試合

第3回極東選手権大会に出場した東京高等師範のメンバー(source: 竹内至著『日本蹴球外史』)

 第3回大会は1917年5月に東京・芝浦(現在の東京・港区海岸2丁目付近)の埋立地に設けられた仮設グラウンドで行われた。これが日本サッカー史上初の国際試合である。

 日本代表は中華民国戦で0―5と完敗。続くフィリピン戦は2―15の大敗を喫した。ちなみにこの1試合での15失点は、現在もA代表の最多失点記録になっている。

 日本は惨敗したが、初の国際大会への出場は大きな反響を呼んだ。国内でのサッカーへの関心と「熱」は高まり、全国各地でサッカー大会が盛んに行われるようになった。

 翌1918年には東京で関東蹴球大会が、名古屋で東海蹴球大会がそれぞれ開催。また、大阪の豊中では大阪毎日新聞社が主催した「日本フートボール大会」が開かれた。この日本フートボール大会は、現在の「全国高校サッカー選手権大会」の前身である。

英紙の「誤報」でFA銀杯が届く 急ぎ「協会発足」に動いた

 一方、日本各地のサッカー熱の高まりは、思わぬ誤解を招くことになる。

 サッカーの母国イギリスの新聞が「日本にサッカー協会が発足し、全国大会が開催された」と誤って報じたのだ。

by KEGEN PRESS編集部
LINEで送る
Pocket