「ミュンヘンの悲劇」を忘れないために、映画『ユナイテッド』は作られた
2011年にイギリスで制作された『ユナイテッド-ミュンヘンの悲劇-』という映画がある。イングランドの強豪マンチェスター・ユナイテッドFCの歴史を語る上で、忘れてはならない「ミュンヘンの悲劇(Munich air disaster)」を伝える映画だ。
マンチェスター・ユナイテッド(以下、ユナイテッド)が、世界中のサッカーファンに知られ、イギリスを代表する名門クラブに成長できたのも、この「ミュンヘンの悲劇」を乗り越えたからだと言われる。クラブの“運命”を一変させたこの悲劇は、これまで関わってきた選手や関係者、サポーターを含む多くの人々の心に深く刻まれ、今日まで語り継がれている。
1958年2月、飛行機事故でユナイテッドの主力選手8人が犠牲に
「ミュンヘンの悲劇」は、1958年2月6日にドイツ・ミュンヘンのリーム空港で起きた飛行機事故のことだ。
その前日、ユナイテッドはユーゴスラビアの首都ベオグラードで、ヨーロッパ・チャンピオンズカップ(現在のUEFAチャンピオンズリーグの前身)の準々決勝第2戦(アウェー戦)を戦った。相手はレッドスター・ベオグラード。試合は3対3で引き分けたが、第1戦を2対1で勝利していたユナイテッドが、2戦合計5対4で準決勝進出を決めた。翌日、意気揚々と帰路につく選手たち。悲劇は給油のために立ち寄ったミュンヘンの空港で起きたのだった。
イギリス行きの小型チャーター機には、ユナイテッドの選手と監督らスタッフ、記者など44人が乗っていた。ヨーロッパ全土を寒波が襲う中、滑走路は雪で覆われ、飛行機は2度の離陸に失敗。機長はいったん乗客を降ろして点検作業を行った。
そして午後3時4分、3度目の離陸。飛行機は滑走路を超えて空港のフェンスを突き破り、近くの民家に突っ込み炎上した。事故により、ユナイテッドの主力選手8人とスタッフ3人、記者8人を含む23人の尊い命が失われた。また、2人の選手が再起不能になった。
■ 天候の回復を待てば、事故は避けられた。なぜ帰国を急いだのか?
事故調査委員会は、滑走路上の氷雪により離陸速度が上がらかなったことが原因と断定した。そうであれば、天候が回復するまで待てば事故は避けられたはずだった…。
だが、ユナイテッドには帰国を急ぐ理由があった。
当時、イングランドの「フットボールリーグ」(国内リーグ)は、発足まもないチャンピオンズカップを軽視していた。そのため、ユナイテッドの大会出場を断じて認めない姿勢を貫いていた。一方、国内リーグを2連覇し、黄金期を迎えようとしていたユナイテッドは勢いに乗っていた。その実力を世界に証明すべく、チャンピオンズカップ側の招待を受け入れ強行出場したのだった。
これを受けて、国内リーグ側は罰則付きの厳しい条件を課した。試合日程を守ること、試合開始の24時間以内にはイングランド領域内に戻っていること―。過密日程を強いられたユナイテッドは、2月5日水曜のベオグラードでの試合後、2月8日土曜には国内リーグ戦が組まれていた。チャーター機を手配したのも帰国を急ぐためであり、ミュンヘンで天候回復を待つ余裕などなかったのである。
クラブ再建を誓うコーチと若きボビー・チャールトンの物語
映画『ユナイテッド』は、のちにイングランド代表のエース・ストライカーとして世界的な名選手になるボビー・チャールトンと、当時、マット・バスビー監督の片腕としてクラブを支えたコーチ、ジミー・マーフィーの2人を軸に物語が展開される。どちらが主人公かと言えば、マーフィーだろう。簡単なあらすじは次の通りだ。
バスビー監督の下で活躍するユナイテッドの若手選手たちは「バスビー・ベイブズ」(バスビーの子どもたち)と呼ばれ、人気を博した。一方、ユースチームの得点王となったボビーは、マーフィーに才能を見い出されトップチームに昇格。スタメンに定着し、国内リーグ2連覇に貢献した。
ボビーはユーゴスラビアでのチャンピオンズカップ準々決勝にも出場。しかし、帰国途中にミュンヘンで飛行機事故に遭い、チームメイト8人を失ってしまう。
ウェールズ代表監督を兼任していたマーフィーは、ワールドカップ予選と日程が重なったため、ユーゴスラビア遠征には同行していなかった。事故後すぐにミュンヘンの病院に駆けつけたマーフィーは、重傷を負いながらも一命を取りとめたバスビー監督から「戦い続けろ」と指示を受ける。