女子サッカーの歴史となでしこ ― イギリスから世界に普及(2/2)
日本初の女子プロサッカーリーグ「WEリーグ」が9月に開幕する。サッカー先進国の欧米に比べて、ようやくのプロ化だと思われがちだが、サッカーの母国イングランドで女子のプロリーグが本格化したのは2011年。アメリカの場合は2001年。そう遠い過去ではない。さらに言えば、FIFA女子ワールドカップの第1回大会は1991年。オリンピックでの女子サッカーの正式競技は1996年アトランタ大会からと、そもそも現代の女子サッカーの歴史はそこまで古くはないのだ。
世界の中で「女子サッカー」はどう普及したのか。その過程には女性差別による逆風もあった。歴史をたどりながら、日本の歩みについてもふり返る。(全2回―2/2)
女子サッカーの歴史となでしこ-イギリスから世界に普及(1/2)の続き
英国から欧州へ広がるも各国で「禁止令」 活動は独自で非公式
19世紀後半のイギリスでルールが統一されたサッカー。第一次世界大戦中(1914―1918年)の男性の出兵に伴い、工場労働を担う女性の間でも人気を集め、盛り上がった。そして、ヨーロッパ各国にも広がっていった。
フランスでは、1918年に女性解放運動家のアリス・ミリア(1884―1957年)が創設した女子スポーツ団体「フランス女子スポーツクラブ連盟」(FSFSF)が女子サッカーリーグを設立。
ドイツでは、1922年に女子学生による大学選手権が開催され、1930年には国内初の女子クラブがフランクフルトに誕生した記録が残る。また、イタリアでも1932年に国内初の女子クラブがミラノで結成されている。
だが、こうしたヨーロッパにおける女子サッカーの活動は、男性を中心とする各国のサッカー協会から認められたものではなく、あくまでも女性たちが独自に組織した非公式のものだった。
■「女性が行うスポーツではない」という風潮
当時のドイツではスポーツクラブで女性がサッカーをすることが禁じられており、フランクフルトに誕生した国内初の女子クラブは発足から数ヶ月で解散したという。フランスのFSFSF運営による女子リーグは1932年に禁止され、イタリアでも国立オリンピック委員会(CONI)が女子サッカーの定着を妨げようと様々な女子スポーツ競技の大会開催を禁止した。男性社会の視線は冷たく、女子サッカーが根付く環境はなかったのだ。
サッカーの母国イギリスの「FA」(イングランドサッカー協会)が1921年に「女子サッカー禁止令」を出したように、ヨーロッパ各国でも「女性が行うスポーツではない」という風潮が一般的だったことが分かる。1955年、ドイツサッカー連盟(DFB)とオランダサッカー協会(KNVB)はともに「女子サッカー禁止令」を通達。違反した加盟クラブへの罰則も設けた。
1960年代後半に起こった「ウーマン・リブ」が風向きを変えた
風向きが変わりだしたのは1960年代後半にアメリカで起こった「ウーマン・リブ」(女性解放運動)がきっかけだ。男性社会に対する不満を抱えた女性たちの叫びが、ヨーロッパや日本など世界中に広がっていった。
国際社会の風潮が変わり始めると、抑えつけられていた女子サッカー熱は少しずつ盛り返していった。
1970年、FAは約50年にわたる「女子サッカー禁止令」を解除。ドイツとオランダもそれに続いた。翌1971年には、国際サッカー連盟(FIFA)公認の初めての女子代表による国際試合「フランス対オランダ」が行われた。
■1979年、国連が「女性差別撤廃条約」を採択
1979年、FIFAは加盟する各国のサッカー協会に対し、女子サッカーを管轄下に置いて普及と発展に努めるよう通達を出した。この年の12月には国連総会で「女性差別撤廃条約」が採択されており、国際社会の流れが大きく変わる節目であった。
こうして、各国のサッカー協会は一斉に女子サッカーを管理し、普及活動を始めた。1980年代には「サッカー不毛の地」と言われたアメリカでも広く浸透していく。