カルチャー

女子サッカーの歴史となでしこ ― イギリスから世界に普及(2/2)

1979年第1回日本女子サッカーリーグ概要
1989年に始まった日本女子サッカーリーグ初年度の概要

 さらに1981年には正式な女子の日本代表チームが結成され、同年6月に香港で開催された第4回の「AFCアジア女子選手権」(現・AFC女子アジアカップ)に出場。これを機に、代表チームの強化や選手の技術向上に向けた「全国リーグ」の必要性が多く議論されるようになる。

■1989年、「日本女子サッカーリーグ」が誕生

 こうして1989年に誕生したのが「日本女子サッカーリーグ」だ。かつては「レディース」の頭文字をとって「Lリーグ」と呼ばれたが、2004年からは「なでしこリーグ」の愛称で親しまれている。

 発足から10年。日本女子サッカー連盟は全国リーグ設立の役目をはたしたことで発展的に解消。女子サッカーは正式にJFAの管理下に入った。

 流れをかけ足でたどれば劇的な進歩が感じられる10年だが、女子サッカーを取り巻く環境は決して恵まれたわけではなかった。

 例えば、初の代表チームが出場した第4回AFCアジア選手権。JFAからの金銭的な支援はなく、女子連盟が自前で強化費用をまかなった。また、選手たちは遠征費の半分を自ら負担したという。

なでしこジャパンの原点「FCジンナン」 高倉麻子元代表監督らが所属

 日本初の女子サッカークラブとして知られ、「なでしこジャパン」の原点と語り継がれるクラブがある。1972年に発足した「FCジンナン」だ。日本初の女子プロサッカーリーグ「WEリーグ」の岡島喜久子・初代チェアや元女子日本代表監督の高倉麻子氏が所属したため、最近よく取り上げられている。

 FCジンナンは JFAの女性職員が雑誌『サッカーマガジン』に告知記事を出してメンバーを募集した。当時、JFA事務局は東京・渋谷区神南に所在する岸記念体育会館内にあった。男性職員がすでに「FC神南」というチームを作っていたため、女子はカタカナ表記の「FCジンナン」と名付けたという。学生から社会人まで、募集を見たサッカー好き女子が各地から集まった。

 中学1年生で加入した高倉氏は、週末の練習に福島県から東京まで電車で3時間以上かけて通ったという。地元の中学に女子サッカー部がなかったからだ。小学生のころは男子に混じってサッカーをしていたが、「女のくせに生意気だ」と意地悪する子もいたという。まだ「女子がサッカーなんて」と言われた時代。中学の男子サッカー部は断念した。

岡島喜久子と高倉麻子
FCジンナンのメンバーだった岡島喜久子・WEリーグ初代チェア(左)と高倉麻子元女子日本代表監督

 高倉氏によると、FCジンナンのメンバーには東大生や警察官もいたそうだ。決まった練習場はなかったが、楽しかった思い出しかないという。女子がサッカーをする環境を見るけるのがとにかく大変だった時代だけに、居心地は特別なものだっただろう。

 メディアのインタビューで高倉氏は「『女子がサッカーをやるなんて』といじめられた時代に、FCジンナンでは分け隔てなくサッカーの話ができた。皆、サッカーが大好きだった」と振り返る。

■「AFCアジア女子選手権」に日本を代表して出場

 FCジンナンは、まだ女子の日本代表が組織されていなかった1977年に台湾で開催された「第2回AFCアジア女子選手権」に日本を代表して出場した。これは日本女子サッカー史上初の国際試合として記録されており、FCジンナンが「なでしこジャパンの原点」とも言われる理由だ。また、1980年に開催された全日本女子サッカー選手権(現・皇后杯)の第1回大会では初代王者に輝いている。

 日本女子サッカーリーグの開幕を前に、FCジンナンは1986年に日産自動車をスポンサーとする「日産FCレディース」となり発展的解消をとげた。日本の女子サッカーの礎を築いたクラブとして、その名前はいつまでも歴史に刻まれるだろう。

 「ウーマン・リブ」のうねりとともに解放され、発展と拡大を繰り返してきた世界の女子サッカー。「ジェンダー平等」が日常的に叫ばれるようになったいま、発展のスピードはさらに加速しそうだ。

 一方、1989年の女子サッカーリーグ設立から20数年後の2011年に女子W杯を制した日本。その10年後の今年、リーグはプロ化に踏み切る。成長過程を見れば歩みは順調といえるだろう。今後の課題はいかにして女子サッカー人口を増やしていくか。次の10年が重要になる。

(了)

by KEGEN PRESS編集部
LINEで送る
Pocket