「李鉄を信じろ!」。サッカー協会が全幅の信頼を寄せる中国代表監督
FIFAワールドカップ(以下、W杯)2022カタール大会に向けたアジア最終予選が始まった。ともに初戦を落とした日本と中国は9月8日午前0時(日本時間)にカタールのドーハで対戦する。
その中国は2次予選を2位で通過し、最終予選に滑り込んだ。本大会出場をはたせば、2002年の日韓大会以来20年ぶりだ。それだけに国民の期待は大きく、初戦の敗戦後から監督の李鉄(リー・ティエ)への批判が一部で噴出している。
だが、李鉄は今年8月に監督契約を2026年まで延長したばかり。中国国営の新華社通信は記事を報じて「李鉄を信じろ!」と呼びかけた。中国サッカー協会はなぜ、李鉄に全幅の信頼を寄せるのか。彼の経歴をたどるとその理由が見えてきた。
16歳で国家の強化計画メンバーに。ブラジルで長期サッカー留学
現役時代の李鉄は、豊富な運動量でピッチを駆け回る守備的MFとして活躍した。その無尽蔵のスタミナは中国語で「跑不死(走っても死なない)」と称されたほどだ。183cm、70kgと体の線は細かったが、頭を使ったポジショニングやパスセンスでそれをカバーした。つまり、李鉄はサッカーIQの高い選手だった。
その李鉄は1977年、遼寧省瀋陽市で生まれた。現在44歳とまだ若い。5歳でサッカーを始め、8歳で人生を変える恩師に出会った。地元の「遼寧FC」の元選手で、引退後はクラブの育成年代や2軍のコーチを歴任した張引(ジャン・イン)である。後に李鉄ら中国代表を含む多数のプロ選手を育て、サッカー界の「ゴッド・ファーザー」とも呼ばれる人物だ。
李鉄は8歳の時に張引のサッカースクールに入った。遼寧FCコーチ時代にハンガリーの指導方法を学んだ張引は、中国サッカーの未来に役立てたいとスクールを立ち上げていた。見込みのある小学生を集めて教える中で、李鉄の才能を見いだした。
張引からサッカーの基礎を叩き込まれた李鉄は、15歳で遼寧FCのユースチームに入団。2年目の16歳の時、大きな転機を迎えた。中国サッカー協会(CFA)による育成年代の強化プロジェクトのメンバーに選ばれたのだ。
プロジェクトは2000年シドニーオリンピックと2002年W杯を見据えたものだった。1977年、1978年生まれの優秀な高校生80数人を全国から集め、2度の選考合宿を通じて22人に絞った。スポンサーである中国大手飲料メーカーの名前を冠して「健力宝ユースチーム」と名付けられたが、CFAが組織するオリンピックに向けた中国代表チーム。李鉄はその22人に選ばれた。
健力宝ユースチームは1993年から1998年までの約5年間、チームとして活動。この間、3度のブラジルサッカー留学を実施し、アルゼンチンやウルグアイなど周辺の強豪国との強化試合や国際ユース大会への出場なども行った。
20歳で代表選出。W杯初出場に貢献し、英プレミアリーグでプレー
李鉄にとっての大きなターニングポイントは健力宝ユースチーム活動中の1997年。翌年のW杯フランス大会出場を目指す中国代表メンバーに招集されたことだ。
チームからは彼を含む4人が選ばれ、バレエ劇「白鳥の湖」にちなんで「4羽の小さな白鳥」と称された。W杯出場はならなかったが、20歳の李鉄は2次予選と最終予選のいずれにも出場。選手キャリアの中で重要な出来事になったことは間違いない。
1998年に健力宝ユースチームが解散すると、故郷の遼寧FCに入団。シドニーオリンピックの予選メンバーと並行してフル代表にも定着していった。2002年W杯日韓大会の予選では不可欠な存在となり、中国初のW杯出場に大きく貢献した。
W杯本大会ではグループリーグ3試合にフル出場するも、0勝3敗無得点で予選敗退。世界の壁の高さを感じさせられた大会となった。
中国代表では2007年までプレー。92試合に出場し、6得点を挙げた。
彼を高く評価し、絶対的な信頼を寄せた当時の代表監督ボラ・ミルティノビッチは、「李鉄は、中国サッカーへの“天からの贈り物”だ」と最高級の賛辞を贈っている。