カルチャー

訪れてみたい、“サッカー侍”が戦った街 ― ペルージャ(イタリア)

1910年設立の「グリフォーニ」 過去に“奇跡”のシーズンも

 ACペルージャの前身は1890年に発足したスポーツクラブ「ソシエタ・スポルティーバ・ブラッチョ・フォルテブラッチョ(Società Sportiva Braccio Fortebraccio)」のサッカー部門だ。1905年に正式なサッカークラブとして活動を始めた。

ペルージャのエンブレム
暴れるグリフォンが描かれたペルージャのエンブレム

 1910年に「リベルタス」というクラブが分裂独立したが、1921年に再び合併。「ソシエタ・スポルティーバ・ペルージャ」として再出発した。このころから、赤と白のユニフォーム、「グリフォン」が描かれたエンブレムを使用。「グリフォーニ(Grifoni)」の愛称で呼ばれる。

 1922年にイタリアサッカー連盟に加盟し、1929年に「ACペルージャ(Associazione Calcio Perugia)」に改称された。1970年代半ばまではセリエBを含む下位リーグで戦った。

 1975年にセリエAに初昇格。

 1978-79年シーズンには全30試合を無敗で終える快進撃を見せ、「奇跡のペルージャ」と呼ばれた。優勝はACミランに譲り2位だったが、クラブ史上最も輝かしいエピソードとして記録される。

1930年ごろのペルージャ
1930年当時のペルージャ
奇跡と呼ばれた1978-79年シーズンのペルージャ
「奇跡」と呼ばれた1987‐79年シーズンのペルージャ

“名物会長”ガウッチ氏がもたらした「光の時代」

 良くも悪くも脚光を浴びたのは、実業家のルチアーノ・ガウッチ(Luciano Gaucci )氏が会長を務めた時代だ。1991年、当時セリエCで苦戦するペルージャの会長に就任すると、豊富な資金力で選手を補強した。

 1996年に15年ぶりのセリエA復帰。翌年すぐに降格したが、1998年に再び昇格し、以後2004年まで6シーズンをセリエAで戦った。2003年にはUEFAインタートトカップを制し、2003-04年シーズンのUEFAカップに出場した。

 後にイタリア代表のスター選手になるマルコ・マテラッツィとジェンナーロ・ガットゥーゾは、ともに若手だったペルージャ在籍時にセリアA初出場を経験している。いずれもガウッチ時代だった。

ペルージャ時代のマテラッツィとガットゥーゾ
ペルージャ時代のマテラッツィ(左)とガットゥーゾ。ともにアズーリのレジェンドだ

■メディアをにぎわせた「型破りな言動」

 ガウッチ氏の型破りなやり方は常にメディアをにぎわせた。

 クラブ在籍中の韓国人選手アン・ジョンファン(安貞桓)が2002年W杯日韓大会でイタリアを破る決勝弾を決めると、激怒して契約解除を示唆。物議を醸した。

 リビアで独裁政治を行うカダフィ大佐の息子サーディ・カダフィを獲得すると、世界のサッカーファンがどよめいた。

 とにかく、世間の注目を浴びることを好んだ。

サーディ・カダフィ入団時のガウッチ会長
サーディ・カダフィ入団会見でのガウッチ氏(右)。2003年6月(source: getty images)

 セリエA初の中国人選手、初のイラン人選手を獲得したのもガウッチ氏だ。女子選手をクラブに加入させると発表し、周囲をざわつかせたこともあった。

 “名物会長”による宣伝効果でペルージャの名が世界に知れ渡ったのは事実だ。

 あれほど思慮深い中田英寿がペルージャを選んだのも、どこか人を引きつける、ガウッチ氏が持つ魅力のせいだったのかもしれない。

ガウッチ氏が去り「影の時代」 消滅危機もあった

 2004年8月、プレーオフに敗れたペルージャはセリエB降格が決定。するとガウッチ氏は、「クラブは息子ら家族に託し、私はこの場所を去る」と発表した。

 ガウッチ氏が離れると、クラブ経営は一気に傾いた。

 2005年夏にクラブは破産。セリエCからの再出発を余儀なくされた。その後、経営陣が一新され、「ACペルージャ」から「ペルージャ・カルチョ(Perugia Calcio)」に改称。しかし、2010年に事実上の経営破綻に陥るとセリエD(アマチュア)降格が通告された。

 クラブ消滅がささやかれたが、新オーナーが現れ買収したため、旧クラブの歴史を引き継ぐ新クラブが発足した。2011年に「ACペルージャ・カルチョ」と改称され、現在に至る。

 以来、セリエAに復帰したことは一度もない(2024年6月現在、セリエCに所属)。

ガウッチ氏を追悼するクラブの公式サイト
脱税容疑で逃亡 ドミニカで余生を過ごしたガウッチ氏
 
 2005年のクラブ破産後、ガウッチ氏はイタリア当局から脱税と資金不正流用の容疑をかけられ、ドミニカ共和国へ逃亡した。
 
 有罪判決を受けたが、逮捕を逃れる。その後、表舞台に出ることはなく、2020年2月に81歳で亡くなるまで首都サントドミンゴで余生を過ごした。
 
 クラブは公式サイトを通じて「フットボールに対して非常に情熱を持った類まれな人物だった」と哀悼の意を表した。
 
 マッシミリアーノ・サントパードレ会長は、「クラブとイタリアサッカーの歴史における偉大な主人公だった。彼のビジョン、勇気、カリスマ性はサポーターと輝かしいクラブの心に永遠に刻まれ続ける」と追悼のコメントを寄せている。

レジェンドの名を冠した本拠地「レナト・クーリ」

 ペルージャのホームスタジアムは「スタディオ・レナト・クーリ(Stadio Renato Curi)」。約2万3000人収容の市営スタジアムだ。

レナト・クーリスタジアム
レジェンドの名を冠した本拠地レナト・クーリ・スタジアム(source: grifovunque.com)

 実はこの名称、かつてクラブに在籍した主力選手の名前を冠している。1977年10月30日のユベントス戦で心臓発作を起こして倒れ、24歳の若さで命を落とした「レナト・クーリ」だ。

 そもそも、スタジアムは1975年のセリエA初昇格を機に建設され、同年の開業当初は地名にちなんで「スタディオ・ピアン・ディ・マッシアーノ」と命名された。

 2年後、レナト・クーリを悲劇が襲った。彼はセリアA初昇格に貢献したレジェンドである。クラブは彼の存在を永遠に忘れないよう、その名をスタジアムに刻んだ。

クラブの歴史学べる博物館 旧スタジアムも必見

 スタジアムのすぐ隣には、クラブの歴史を時系列で学べる博物館がある。貴重な資料が揃う必見のスポットだ。館内にはクラブの公式ショップやカフェがあるため、時間をかけて楽しめそうだ。

 また、街にはかつての本拠地「スタディオ・サンタ・ジュリアーナ(Stadio Santa Giuliana)」がいまも残る。

ペルージャのクラブ博物館
クラブ史を時系列で学べる博物館(source: acperugiacalcio.com)

 1937年に建設されたサンタ・ジュリアーナは約1万5000人収容。40年近く、クラブと歩んだスタジアムだ。

 陸上トラックがあるため、現在は主に陸上競技や音楽コンサートなどで使用されているという。初のセリエA昇格を決めたメモリアルな場所であり、クラブの貴重な歴史遺産。やっぱりカメラに収めたい。(了)

 


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by KEGEN PRESS編集部
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