ついに100回!「全国高校サッカー選手権大会」の歴史をたどる(1/2)
これを受け、大日本蹴球協会は1933(昭和8)年に一本化を決定。他の地域の全国大会は廃止され、翌1934年に「全国中等学校蹴球選手権大会」に統合された。統合先に選ばれた理由は、最も規模が大きく、地方予選などの内容もよく整備されていたからだとされている。
こうして、第16回大会(1934年)から、日本で唯一の、中等学校の頂点を決めるサッカー全国大会となった。大日本蹴球協会が主催に加わり、文部省が後援となった。
統合により大会の組織は整い始めた。しかし、第二次世界大戦の影響により、文部省は1941年に全国規模のスポーツ大会の中止を命令。同年の第23回大会と1942年の第24回大会は中止の扱いとなり(記録上は回数をカウント)、戦後の1946年に第25回大会が復活するまで大会は「休止」となった。
歴代最多の優勝11回 日本サッカーの先駆け「御影師範」
御影師範。高校サッカーファンなら、誰もが一度は目にしたことがある名前ではないだろうか。毎年販売される高校サッカーの年鑑や選手名鑑の終わりのほうに記載される、「歴代優勝校」の情報欄で見た記憶だろう。
現在の阪神電鉄・御影駅(神戸市東灘区)のすぐ北側。そこにあったのが御影師範学校(現・神戸大学国際人間科学部)だ。「日本フートボール優勝大会」の第1回大会から第7回大会まで、“7年連続優勝”を成し遂げた強豪校だった。その後、優勝回数を11回まで更新。出場校数の違いなど時代の差はあるものの、いまも歴代最多優勝校として「選手権」の歴史に名を刻む(2021年現在)。
神戸は横浜や長崎などと同様に、幕末の開国によって港を開いた街だ。1868年の開港と同時に外国人居留地が設けられ、外国人によるサッカーチームがすでに存在した。つまり、日本で最も早くからサッカーが行われた地域の一つだった。
こうした背景もあり、御影師範でも1890年代にはすでにサッカーが行われていたという。それが、国内初の日本人によるサッカーチームではないかとも言われている。
既述のとおり、日本では高等師範学校の卒業生を通じてサッカーが全国に広まったわけだが、御影師範には1909(明治42)年にOBの玉井幸助氏が赴任。チーム強化に貢献したことは言うまでもない。蹴球部が正式に学内の運動部になったのは1912年だという。
1917年の「第3回極東選手権大会」に日本を代表して東京高等師範が出場したと伝えたが、本来は代表を決める予選大会が予定されていたという。関西予選を勝ち抜いたのは御影師範。しかし、学校の遠征許可が下りず、やむなく棄権。結局、予選大会は行われなかった。
もしも、このとき御影師範が上京できていたら。“日本サッカー史上初の国際大会”の歴史は変わっていたかもしれない。