ついに100回!「全国高校サッカー選手権大会」の歴史をたどる(2/2)
「全国高校サッカー選手権大会」が、2021年度でついに100回目を迎えた。1918年に始まり、近年は冬の風物詩として毎年脚光を浴びる大会だ。サッカー部に所属する高校生たちの「夢の舞台」であり、「青春」そのもの。プロ選手や日本代表を多く輩出し、日本サッカーへの貢献も大きい。
いまでこそ首都圏開催だが、始まりから約半世紀は関西が舞台だった。戦前は、日本の植民地だった朝鮮半島の学校が出場したことも。サッカーファンの心に思い出として残り続ける、通称「選手権」。その歴史をたどる。(全2回―2/2)
ついに100回!「全国高校サッカー選手権大会」の歴史をたどる(1/2)の続き
1918(大正7)年に関西の招待大会として始まった「日本フートボール優勝大会」は、その後「全国中等学校蹴球選手権」と改称され、各地のサッカー大会を統合。国内唯一の全国大会となった。しかし、戦争の影響により1940(昭和15)年の第22回大会以降は休止状態に。そのまま、終戦を迎えた。
戦後の「学制改革」で大転換 高校サッカーの“大衆化”が進む
敗戦後の日本社会の荒廃は誰もが知るところだが、スポーツの復興は早かった。これは日本を占領下に置いた連合国軍総司令部(GHQ)が、大衆スポーツを通じて民主化や復興を進めようとしたことにも影響する。GHQがとくに力を入れたプロ野球は、終戦まもない1945年11月に東西対抗戦が行われた。
「全国中等学校蹴球選手権大会」といえば、復活に向けた準備として1946年に関西の19校で招待大会を開催(第25回大会と記録)。翌年、長く中断していた全国大会(第26回大会)が復活した。しかし、これを境に「学校スポーツ」は大きく転換する。GHQによる「学制改革」(1947年)が行われたのだ。
戦前の学校制度は複雑で分かりにくい。大会名にある「中等学校」という表記になじみのない人も多いだろう。簡単にいえば、戦前の義務教育は小学校の6年間のみ。その上に中学校や実業学校(商業学校や工業学校など)といった、“5年制”(13歳から17歳)の中等学校があった。新聞などのメディアで「旧制中学」と記されるものだ。
それが、学制改革によって根本から変えられた。義務教育は、小学校の6年と新制中学校の3年からなる9年に再編。その上に新たに3年制の高等学校が置かれた。いわゆる、現在の「6・3・3」制である。師範学校は廃止となり、「大学」に吸収された。
よって、第27回大会からは、「新制の高等学校」が競う、まったく新しい全国大会に変わったのである。名称も「全国高等学校蹴球選手権大会」に変更された。そしてこの大会から、学制改革により新設された「全国高等学校体育連盟」(高体連)が主催に加わった。
戦前のサッカー大会に参加していたのは、主に中学校と師範学校(教員を養成する学校)。実業学校のサッカー普及は遅れていた。つまり、サッカーをしていたのは、一部の中等教育を受けられた学生だった。この時代のほとんどの子どもは、小学校を卒業後すぐに社会に出て働いたという。
そう考えると、学制改革の影響は大きい。サッカーは一部の学生によるものではなくなった。商業高校や工業高校などへの普及も促し、戦後は「高校サッカーの大衆化」が進んでいったのである。
“高校総体問題”で毎日新聞が撤退 「選手権」は協会が独自開催
現在、高校サッカーで「三冠」といえば、「全国高校サッカー選手権大会」「全国高校総合体育大会(高校総体、インターハイ)」「高円宮杯JFA U-18プレミアリーグ」の3つを指す。実は、その中の高校総体の始まりは、「選手権」の歴史にも深く関わっている。
高校総体は、それまで各競技がそれぞれ行っていた全国選手権を統合し、毎年夏に同じ地域で集中的に開催しようと、高体連が主催して1963(昭和38)年に発足。後援のNHKが企画したという。
ここで問題が起こった。「全国高等学校蹴球選手権大会」の主催も兼ねていた高体連が、冬の「選手権」を高校総体に移そうと提案したのだ。NHKの経済支援により、テレビ放送や全都道府県の47校の出場が可能になる利点があった。高校関係者の多くも、大学受験を考慮し、夏への移行を支持した。
しかし、歴史のある「選手権」の存続に強いこだわりをもつ日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)は反対した。協議は難航。最終的には、高校総体にサッカー競技は加えるものの、冬の「選手権」は協会が独自に開催することで折り合いがついた。
これを機に、高体連は「選手権」の主催から外れた。ところが、1918年の発足から大会を支えてきた大阪毎日新聞社も同時に撤退を表明。関係者に衝撃が走った。
最初の「高校総体サッカー競技」は、発足から3年後の1966(昭和41)年に青森県で行われた。一方、日本蹴球協会は、翌年1月に「昭和41年度 全国高等学校サッカー選手権大会」を独自に開催した。この大会から名称の「蹴球」は「サッカー」に変更された。
協会の独自開催は、毎日新聞の撤退で経費縮小となり、困難な状況を強いられた。大会の出場数を減らし、半分の16校で開催。地方予選は実施せず、各地域による推薦制度を導入。高校総体と国体の上位校を招待した。高体連が主催から外れたため、運営に携わる教員は「個人」の立場で協力した。
■ 問題の背景にあった「文部省の通達」
“高校総体問題”はなぜ、もめたのか。背景にあったのは文部省の方針だ。
文部省は当時、「高校生の全国大会は、国民体育大会(国体)のほか、年1回とする」と通達していた。教員で組織される高体連は文部省に従うしかない。協議が難航したわけだ。高校総体サッカー競技の実施が決まると、高体連は大会名称から「回数」と「選手権」の文字を外してほしいと提案した。協会は「昭和41年度」と改めたが、「選手権」の表記は譲らなかったのである。