WEリーグ&なでしこ

40代でも「進化」を続ける安藤梢のすごさ。その背景を探る

安藤梢
衰え知らずのフィジカルでフル出場を繰り返す安藤梢(source: getty images)
 元日本代表でWEリーグ・三菱重工浦和レッドダイヤモンズレディースの安藤梢(こずえ)が、40歳となったいまも目を見張る進化を続けている。本来はFWとして攻撃の中心を担う彼女だが、昨季はボランチ(守備的MF)をこなしたかと思えば、今季はけが人などのクラブ事情を受けてセンターバックでプレー。最終ラインをそつなく統率し、たぐいまれな適応力を見せている。なぜ進化を続けられるのか。強さの源はどこにあるのか。彼女のサッカー史をたどり、背景を探った。

強さの源はどこにあるのか? 注目したい3つの経験

 安藤と言えば、長く女子サッカー界をけん引した澤穂希や宮間あやらとともに、2011年FIFA女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会を制した優勝メンバーの一人だ。しかし、強烈なキャプテンシーをもつ澤や宮間のほか、個性派が揃う当時のなでしこジャパンの中では、そこまで目立った存在ではなかったかもしれない。

 それでも、レジェンドの澤は37歳、宮間は31歳で競技の一線から退いた。そう考えると、40歳にしていまもトップレベルで活躍する安藤のすごさがわかる。しかも、ベンチを温める選手ではなく、スタメンをはる主力の位置づけだ。(もちろん澤や宮間ももう少し長くやれたとは思うが)

 衰え知らずのスタミナ、フィジカル。そしてベテランにしてセンターバックという新境地をそつなくこなす適応力には脱帽だ。WEリーグ初年度の昨季はベストイレブンに選ばれた。見方によれば「澤を超えている」と言えるかもしれない。

 安藤がサッカーにおいて大切にしていることは何か。その姿勢や思考、進化の源はどこにあるのか。彼女のサッカー史をたどると、注目したい3つの経験があった。

 それは、①比較的長い時間、男子と一緒にサッカーをしてきたこと、②飽くなき向上心と探究心でサッカーと向き合ってきたこと、③海外経験(ドイツ)を経て、それまでの自分にはないメンタリティを身につけたことだ。「心技体」が整う要因に違いない。

幼少から中学まで長く男子とプレー 16歳で日本代表

 栃木県宇都宮市出身の安藤は、サッカー経験者の父親の影響で3歳からボールを蹴り始めた。父親が園長に頼み、幼稚園のサッカーチームに加入。初の女子メンバーだったという。

 小学校も同様に男子のサッカー少年団に所属。男女わけ隔てなく指導してくれたコーチに応えようと、努力を重ねたという。小4からは新設の女子チームにも通い、小6で出場した全国女子サッカー大会でMVPを受賞。チームを優勝に導いた。

 小学生のときに「紅一点」で男子の中でプレーする女子はわりといるが、中学生になると激減する。また女子サッカー部が無く、他のスポーツを始める女子も少なくない。澤は読売サッカークラブ(現東京ベルディ)の女子チーム(現ベレーザ)で、宮間はその育成組織で中学生時代を過ごしている。

 そんな中、安藤は中学校の3年間を男子サッカー部でプレー。女子としてはめずらしい。体格やスピード、パワーに勝る男子と日常的にプレーする経験は得がたく、技術の向上を加速させたはずだ。案の定、高校に上がるとその成果はあらわれた。

 地元の宇都宮女子高校に進学した安藤は、高校1年時の1999年に日本代表に初選出。16歳の新鋭だ。さらに同年にアメリカで開催されたFIFA女子世界選手権(現在のW杯)のメンバーに選ばれ、A代表デビューをはたした。

筑波大学時代は「男子蹴球部」の練習に参加

 高校卒業後は筑波大学女子サッカー部の門を叩いた。そしてここで再び、男子サッカーとの交わりをもつことになる。

 グランドの優先使用など、女子よりも男子蹴球部が優遇される環境に物足りなさを感じ、男子蹴球部への入部を教員に直訴したのだ。「女子はダメだ」と断られたものの、それを見かねた大学院生のコーチが新入部員を対象にしたトレーニングへの参加を持ちかけてくれたという。安藤は内緒で参加。すると教員も「仕方がないなあ」とその熱意を受け入れたという。

 こうしたエピソードは、筑波大学の広報サイト『TSUKUBA WAY』のインタビュー記事によるものだ。当時の心境について安藤は、「(男子とぶつかり合うことに)抵抗はなかった。むしろ、自分をより高められる環境の中でプレーさせてもらえることに毎日ワクワクしていた」と振り返る。

 また、「大学の女子サッカーはまだ成熟しておらず、毎日練習は無かった。(男子の)蹴球部で練習することは自分にとって良い環境だと思い、迷いはなかった」という。

 インタビュー記事には当時の男子蹴球部員と収まる写真があり、そこには筑波大OBで元日本代表の藤本淳吾の顔も見られた。将来の男子日本代表選手と練習をしていた安藤。技術レベルがいやが応でも引き上げられたことは言うまでもない。

大学時代から研究課題は「自らのサッカー成長」 転機は代表落選

 サッカー選手である傍ら、安藤は2021年3月から母校の筑波大学で体育系の助教として教壇に立っている。

 かつて研究者の道を歩むきっかけの一つと言える出来事があった。大学2年時の日本代表の落選だ。高校1年で日本代表に入り、順調にキャリアを積んでいた安藤だったが、大学2年時に招集外となった。大きな挫折を味わったという。

 「もう一度、日本代表に戻って世界と戦える選手になりたい」

 目標達成のためのプロジェクトチームを大学で立ち上げ、科学的なトレーニングを始めた。

 具体的には、技術面、フィジカル面だけでなく、医学や栄養学、心理学など様々な観点からサッカーの向上に取り組んだ。試合後はすぐに研究室に戻り、試合内容を分析。課題を見つけ、その解決のためのトレーニングを考えたという。

by KEGEN PRESS編集部
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