海外サッカー

急成長中のベトナムサッカーは、長期的な視点で「2026年W杯」出場を目指す

サッカーベトナム代表
育成強化の成果が着実に見られているベトナム代表(source: en.vff.org.vn

 FIFAワールドカップ(以下、W杯)2022カタール大会に向けたアジア最終予選。11月に日本と対戦する初出場のベトナムは、ここまで4戦4敗と厳しい状況が続く。

 しかし、この国のサッカーはいま、急成長中だ。かつて、代表チームは戦争により南北に分かれていた時代もあった。だが、近年は国家の経済成長を背景に、長期計画で育成年代を強化。サッカー先進国との関係強化にも取り組んできた。すると、国際大会で徐々に「躍進」が目立つように。着実に成果が見られている。

 日本との協力関係も深まりつつある中、現実的な目標として掲げるのは「2026年W杯」出場だ。さらなる飛躍はあるのか。

ベトナム戦争の歴史、代表チームは南北に2つあった

 ベトナムでサッカーが始まったのは19世紀末。この地を植民地支配していたフランス人によって伝えられた。20世紀に入ると、カップ戦など大会が行われるほど盛んになった。

フランス植民地時代のベトナムサッカー
フランス当局者とサッカー大会で優勝したベトナム人チームの選手たち。1922年頃

 ところが、第二次世界大戦が始まり、サッカーは停滞。終戦直後にベトナム民主共和国が独立したが、阻止をもくろむフランスとの間でインドシナ戦争が起こり、ベトナムは南北に分断された(1954年)。そして、米ソ冷戦の「代理戦争」と言われたベトナム戦争へと続いていく。

 このとき、社会主義陣営が支援するベトナム民主共和国(北ベトナム)と、資本主義陣営が支援するベトナム共和国(南ベトナム)は、それぞれ代表チームを組織した。しかし、政治体制の違いから、南ベトナム代表が国際サッカー連盟(FIFA)やアジアサッカー連盟(AFC)に加盟し、AFCアジアカップやアジア競技大会に出場したのに対し、北ベトナムはいずれも未加盟で、対外試合の相手は主に共産主義国だったという。

 そんな状況が20年続き、ベトナム戦争は1975年に終結した。南北が統一され、1976年に「ベトナム社会主義共和国」が成立、サッカーの代表チームも一つになった。しかし、その後もカンボジア・ベトナム戦争(1975ー1979年)、中越戦争(1979年)と戦時体制は続き、経済や国民生活を圧迫。長引く戦争の影響で、ベトナムのサッカーは立ち遅れた歴史をもつ。

ドイモイ政策が社会経済を活性化、サッカーは息を吹き返した

 サッカーが息を吹き返したのは1980年代。1980年にプロリーグが発足し、1989年に現在のベトナムサッカー連盟が新たに始動した(注1)。統一後の代表チームは、1991年の東南アジア競技大会からようやく活動を再開。W杯は1994年アメリカ大会から、AFCアジアカップは1996年大会から、それぞれ予選に復帰した。

 せきを切ったように動き出したのは、ベトナム政府が1986年に開始したドイモイ(刷新)政策がきっかけだ。市場経済化にかじを切り、規制緩和を進めた。社会経済は活性化し、2000年以降の高い経済成長が続いている。

■ 初の国際タイトル獲得は2008年の東南アジア王者

 代表チーム初の国際タイトルは、2008年のAFFスズキカップ(ASEANサッカー連盟主催の東南アジアサッカー選手権)の優勝だ(注2)。

ベトナムの英雄、レ・コン・ビン
コンサドーレ札幌でもプレーした“ベトナムの英雄 ”レ・コン・ビン (source: en.vff.org.vn

 前年のAFCアジアカップ2007で東南アジア唯一のベスト8入りをはたし、勢いに乗った。優勝に貢献したFWレ・コン・ビンは“ベトナムの英雄”と称され、のちにコンサドーレ札幌に所属(2013年8月から約5ヶ月間)。初のベトナム人Jリーガーとなった。

 最初の躍進は、国民に「黄金時代の到来」を期待させたが、長くは続かなかった。

 そして、10年後の2018年12月。ベトナムは2度目となるAFFスズキカップ制覇し、東南アジア王者を奪還。熱狂する国民が街中にあふれ、お祭り騒ぎの様子がニュースで流れた。実はこの年の1月、ベトナムはAFC・U-23選手権で準優勝していた(日本はベストで8敗退)。歓喜にわく国民は、ベトナムサッカーの成長を確信したのだ。

 翌2019年のAFCアジアカップでは準々決勝で日本と対戦。PK献上の1点に泣き、0ー1で敗れベスト4を逃したが、その変貌ぶりを印象づけた。

by KEGEN PRESS編集部
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