女子サッカーの歴史となでしこ ― イギリスから世界に普及(1/2)
日本初の女子プロサッカーリーグ「WEリーグ」が9月に開幕する。サッカー先進国の欧米に比べて、ようやくのプロ化だと思われがちだが、サッカーの母国イングランドで女子のプロリーグが本格化したのは2011年。アメリカの場合は2001年。そう遠い過去ではない。さらに言えば、FIFA女子ワールドカップの第1回大会は1991年。オリンピックでの女子サッカーの正式競技は1996年アトランタ大会からと、そもそも現代の女子サッカーの歴史はそこまで古くはないのだ。
世界の中で「女子サッカー」はどう普及したのか。その過程には女性差別による逆風もあった。歴史をたどりながら、日本の歩みについてもふり返る。(全2回―1/2)
第一次世界大戦中、英国の軍需工場で働く女性がクラブを結成した
フットボール発祥のイングランドで「アソシエーション式フットボール」(のちのサッカー)の統一ルールが作られたのは1863年。これにより、「ラグビー式フットボール」との違いが明確になった。
この統一ルールを決めた会議は、世界最古のサッカー協会とされる「FA(フットボール・アソシエーション)」の公式な設立日とされ近代サッカーの起源となっている。
FAの発足を機に、サッカーは労働者階級の人びとの娯楽スポーツとして楽しまれた。そして、一部の女性たちもプレーするようになる。
イングランド史上初の女子サッカー公式戦は1895年にロンドンで行われた。
貴族の夫人を後援者として結成された「ブリティッシュ・レディースFC」の選手が、北チームと南チームに分かれて対戦。11000人の観客を前に北チームが7-1で勝利した。
ところが、お隣のスコットランドでは、これより前の1981年に女子サッカーの試合が行われた記録が残る。「イギリス初」となれば、こちらの試合になる。
当時のイギリス社会では、女子サッカーの盛り上がりは「意外」なことだった。社会生活における男女格差は大きく、「サッカーは男性のスポーツ」という考えが根強かったからだ。女性がサッカーをすることに好意的ではない人も少なくなかった。
それを裏付けるかのように、1902年、FAは加盟クラブに対し「女性と試合をしてはいけない」という通達を出した。女子サッカーの盛り上がりを抑えようとしたのだ。
■戦争中は推奨された女子サッカー。なぜか?
しかし、1914年に第一次世界大戦が勃発。男性が戦地へ赴くと、代わり女性が工場労働を担うことに。すると、昼休みなどを利用して女性たちはサッカーを楽しみ、夢中になった。
実は、戦争中は女子サッカーが推奨されていたのだ。男性社会による否定的な風潮の中、なぜなのか。それは、「組織化されたスポーツ活動は工場労働の士気を高め、生産性の向上にもつながる」と考えられたからだった。
こうした背景もあり、イングランド各地の軍需工場に女子サッカークラブが誕生していく。活動が本格的になると、クラブ間で交流試合も行われ、盛んになった。しだいに観客も増えていった。人気の高まりは、戦争により男子のリーグ戦が中断されたこともきっかけになったようだ。
交流試合はチャリティーで行われ、その収益は負傷兵の治療費などに寄付された。当時のクラブの多くは戦争慈善団体のための資金調達を目的に組織されていたという。
こうしてイギリスに端を発した女子サッカー熱は、ヨーロッパ各地にも波及していった。
黎明期を象徴する人気クラブ「ディック・カー・レディースFC」
イングランドの女子サッカー黎明期を象徴するクラブがある。北西部ランカシャー州のプレストンにある軍需工場で働く女性たちによって結成された「ディック・カー・レディースFC」だ。会社名のディック・カーから名付けられたこのクラブは、1917年10月に創設された。
クラブは結成まもない1917年12月に地元の観客10000人を前に試合を行い、勝利した。会場は「ディープデール・スタジアム」。1888年のイングランド最初のサッカーリーグ発足時に参加していた、プレストン・ノースエンドFCの本拠地として知られる歴史あるスタジアムである。