女子サッカーの歴史となでしこ ― イギリスから世界に普及(1/2)
ディック・カー・レディースは各地で試合を重ね、チーム力を高めた。1920年春にロンドンで行われたパリのクラブとの交流戦は、女子サッカー史上初の国際試合として記録されている。同年秋にはフランス遠征を行い、注目を集めた。このころ、人気はピークに達していた。
いまも語り継がれるのは、1920年12月にリバプールにあるグディソン・パーク(現・エヴァートンFCの本拠地)で行われたセント・ヘレンズ・レディースとの試合だ。53000人もの観客がスタジアムを埋めつくし、14000人が入場できなかったというから驚きだ。ディック・カー・レディースは4―0で快勝。女子サッカーの人気の高さと、当時の熱狂ぶりを伝えるエピソードとして歴史に刻まれている。
クラブには、「リリー・パ―」(Lily Parr、1905―1978年)というスター選手がいた。1920年に14歳で加入し、1951年までの選手キャリアの中で900得点以上を挙げたレジェンドだ。2002年には、女子サッカー選手として初めてとなるFAの「サッカー殿堂」入りをはたした。マンチェスターにある国立サッカー博物館には、彼女の銅像が展示されている。
高まる女子サッカー人気を危惧、FAが「禁止令」で活動を妨害
ディック・カー・レディースなどを中心に、女子サッカーは男子をしのぐ勢いで盛り上がりを見せた。1918年に第一次世界大戦が終結し、男子のリーグ戦が再開された後も、その熱は冷めなかった。
こうした状況を危惧したFAは、1921年、加盟クラブに対し「グラウンドを女子クラブに貸し出ししないように」と通達を出した。事実上、女子サッカーの試合を禁止したのだ。
FAの評議会は「フットボール(サッカー)は男子のスポーツ」「フットボールは女性の健康を損なう」などといった偏見や根拠のない主張にもとづき、「フットボールの試合は女性に不適切であり、奨励されるべきではない」と結論づけた。英紙ガーディアンによると、当時の出席者からは「女性がフットボールをすることについて不満が出ている」などの意見があったという。
差別的なFAの「禁止令」によって、多くの女子クラブが解散を余儀なくされ、観客数はしだいに減っていった。やはりここでも、男性の嫉妬が女性の活動を妨害したのだ。
しかし、女子サッカー自体の活動が停止したわけではない。女性たちは諦めなかった。
困難な状況の中でも、地元の公園や、ときにはドッグレース場などを利用して活動を続けるクラブがあった。ラグビー場を借りて大会が開催されるなど、FA非公式ながら交流試合も行われた。
前述のディック・カー・レディースは、地元プレストンにあるアシュトンパークを拠点に活動を続け、フランスやアメリカなどで遠征試合も行っている。
FAによるこの「禁止令」が解除されたのは1970年のこと。なんと約50年間も続いたのだ。
イギリスの女子サッカーには、こうした女性差別によって後退を強いられた「負の歴史」がある。