中高生のサッカー小僧たちよ! 木村和司、知ってる?― 「10番の極意」記した著書
『サッカーの園~究極のワンプレー』(NHK-BS1)というテレビ番組がある。「ドリブル」「PK」「スーパーサブ」など、毎回のテーマに沿っていくつかの「匠なプレー」をノミネート。その中から、最後に「究極のプレー」を一つ選ぶ。
先日、テーマが「背番号10」の放送回を見た。10番に求められる資質を語りながら、ノミネートされたのは中村俊輔、藤田俊哉(ゲストとして出演)、澤穂希、本山雅志、本間至恩の5人のプレー。「究極のプレー」は澤穂希が選ばれた。
番組の途中で、ペレやジーコ、マラドーナといった10番を印象づけた世界的な名選手も紹介。しかし、見ていて何か違和感が残った。「誰かが足りない…」と感じた中高年は、私以外にもいたのではないだろうか。
そう、木村和司とラモス瑠偉がまったくスルーされていたのだ!
おそらく、想定する視聴者の年齢に合わせた番組構成なのだろう。しかし、この2人が登場しなかったのは、正直寂しい…。とりわけ、木村氏の10番に対するこだわりは強かったはずだ。時代の流れを感じさせられた。
類まれなサッカーセンスで、観客を魅了した「ファンタジスタ」
中高生のサッカー小僧たちよ! 木村和司、知ってる?
親が横浜F・マリノス(以下、横浜FM)のサポーターだという子どもなら、聞いたことがあるかもしれない。なければ、たまにNHKのサッカー中継で、眠たそうに解説する“オジサンの声”を聞いたことはないか? 聞かれたことだけに、独特の間で、端的に答える声を。しかも、ときに「フフフ」と笑い出す。そう、それが木村和司だ!
1958年、広島県生まれ。明治大学在学中に日本代表に初選出され、1981年に日産自動車サッカー部(現在の横浜FM)に入部。3年目にウイングFWから攻撃的MFにコンバート。ゲームメーカーとしての才能が開花し、「日産黄金期」の礎を築く。1986年には奥寺康彦氏とともに初の国内プロ選手になった。
日本にプロ化の波がやってきたとき、選手ピークは過ぎていた。しかし、「プロリーグを自分の目で見ておきたい」と、34歳で1993年のJリーグ開幕戦のピッチに立った。「ミスター・マリノス」と呼ばれ、翌1994年に現役を引退。引退後は、2001年にフットサル日本代表監督、2010年に横浜FM監督を務めるなど後進の指導にあたっている。国際Aマッチ54試合出場、26得点。
木村氏のプレーはまさに「ファンタジスタ」そのもの。相手DFの裏をかくテクニックやひらめき、正確なキックで数々のチャンスを演出した。自らも得点を重ね、決定率の高い直接フリーキックは語り草。類まれなサッカーセンスで、日本代表や日産自動車、横浜FMで長く10番を背負い、観客を魅了した。2020年に「日本サッカー殿堂」入り。まぎれもない“レジェンド”だ!
10番への想い込めたマニアックな著書『木村和司の攻撃サッカー』
そんな木村氏の、10番に対する熱い想いを凝縮した一冊がある。著書『木村和司の攻撃サッカー 「背番号10」のプレー』(池田書店・1995年)だ!
大学生時代、私はスルーパスを出す楽しさを覚え、その研究?に夢中になった時期がある。研究といっても、Jリーグや海外サッカーの試合で「うぉー!」とうなったスルーパスを、ひたすらビデオのコマ送りで見返し、イメージトレーニングを重ね、後日練習で試す、というだけのことだが…。
当時、木村氏はすでに現役を引退していたが、最寄りの図書館で借りたのがこの本だった。30代のころにブックオフで“再会”し、迷わず購入した。